侍が、ある禅の行者に訪ねた。
「禅師 天国と地獄はどこにあるのじゃ?」
行者は答える
「たわけ者! そなたはここに来るところではない!即刻立ち去れい!」
侍は頭に血がのぼり、刀をぬいた。
今にも刀を禅の行者にむかった振りおろそうとうとする刹那
行者が「そこに地獄があるのじゃ!」といった。
ふと我に返った侍は静かに刀を鞘におさめた。
「天国の扉が開いたじゃろう・・・」
このお話は有名なお話で、幾人かは聞いたことがあるようなお話かとおもいます。
心の中に地獄があり、心の中に天国があることをさとしている有名な逸話でございます。
私も同じように考えております。
浄霊を通じていろいろと学ぶことがあります。
御経や真言を唱えていると、浄霊をされにきている方が苦しみだします。
TVでそのような浄霊番組があり苦しんでいる姿とまったく同じ状態です。
それからいろいろお話をしたりしていきますが
一度の浄霊で終わるパターンと数回しないと、なかなかとれないことがあります。
浄霊とは「光」です。憑依とは「闇」です。
「光」のエネルギーは強いですので必ず闇を打ち払うことができるのですが、
相手の心に光を灯すことができなければ、また違う霊に憑依されてしまうことがあります。
光のエネルギーが優しくて心地いいはずなのに、
なぜ霊は苦しむのでしょうか?
この答えを神様にお尋ねしてみますと
「自分を失うのが恐怖である」と降りてきました。
分かりやすく説明しますと
例えば恋愛で苦しみ自殺をした人がいたとします。
恨みやつらみで自殺をされたわけですので
肉体を失ってからも、その念だけは常に残ることとなります。
そして食事をしたり、寝たりして肉体を維持する必要はありませんので
常に恨むことだけを考え、そしてそれが生きがいのようになり、
これが自分の存在価値であるかのようになっていきます。
そこで、霊能者が浄霊することで
恨みの念が消えてしまうことが、
自分の存在が消えてしまう恐怖にかられて暴れ出すことになるわけです。
この問題をひも解く上で
「地獄絵図・・・」という言葉が聞こえてきました。
江戸時代の頃とかに、絵画として地獄絵図がさかんに書かれていた時期がありました。
その絵には
鬼が罪人を釜ゆでにしたり 針山を歩かされているシーンがあります。
鬼が霊能者であり占い師であるような気がしてなりません。
なぜ、罪人は罰を受けているかというのは
今までの罪を悔いあらためて、「気づき」そして成仏するために頑張っている姿であり
ただ苦痛を味わっているだけでないわけです。
「人の痛みを知る」という言葉がございますが、
罪人が人殺しをしたのであれば、遺族の方の気持ちは心を引き裂かれる思いであったわけで
その気持ちを理解するために、体を引き裂かれるような経験を地獄絵図でしていることになるわけです。
ある段階を踏むと人の痛みを知るから、すなわち「気づいた」瞬間に成仏するのでしょう。
先ほどの禅の行者と武士との会話のお話も同じ意味であるかと感じるはずです。
そして地獄絵図にかかれている
鬼の姿は、罪人からすると、
自分の存在を消すものとして見えるわけですから恐怖なのです。
だから鬼の姿なのです。
最後に浄霊において、
まったく接点のない霊体がついて、苦しんでいる方もいます。
なぜなのか・・?
よく引き寄せ現象やチャネリングという言葉があります。
同じ波長(チャンネル)をもっている人を引き寄せるということ意味であります。
例えば、ある男性が彼女を理不尽に振り苦しめたとします。
同じ経験をして自殺された女性の霊が、とんでもないやつだ!苦しめてやる!
といってくるわけです。
ただ全員が憑依されるわけではありません。
男性の方に悪いことをした・・という罪の意識があるとそこが隙となり
そこから憑依することになります。
この憑依して女性の霊は、自分を苦しめた男性にピンポイントでいけばいいのですが、
女性を悲しませる男性全てに対し自分が憑依するターゲットとしてなりうるわけです。
広島に原爆が落とされて大勢の方がお亡くなりになられました。
亡くなった方や遺族の方は
爆弾を落とした人ではなくアメリカを恨んでいるわけです。
このことから、特定ではなく不特定多数に恨みをもつこととなることは
生きている私たちの考えからも理解できるかとおもいます。
私たち生き霊といわれる肉体をもった霊と
肉体をもたない一般的な霊の違いや共通点を理解していくことで
「気づき」が多くなるのではないでしょうか・・
新しいものの考え方をできることを
「第三の目」というのでしょう・・・
大阪の霊視鑑定の光明